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2022年映画ベストテン [映画]

今年もたくさん映画を観に行ったが、総じて不作の年だったと思う。今振り返っても、それがどんな映画だったのか印象が薄いものが多いのだ。映画を見すぎて感動の閾値が上昇しているのかもしれないし、たまたまいい映画をスルーしてしまったのかもしれない。

ノミネート作品
洋画24作品
クライマッチョ スティルウォーター コーダ愛のうた ボストン市庁舎 ダークウォーターズ 声もなく シャドウインクラウド 英雄の証明 カモンカモン チタン トップガンマーヴェリック 帰らない日曜日 リコリスピザ 哭悲 スワンソング ブレットトレイン 渇きと偽り RRR アムステルダム チケットトウパラダイス パラレルマザーズ ザ・メニュー 秘密の森のその向こう MEN
邦画2作品
死刑に至る病 川っぺりムコリッタ

第1位 声もなく
第2位 川っぺりムコリッタ
第3位 シャドウインクラウド
第4-10位  ザ・メニュー コーダ愛のうた RRR 秘密の森のその向こう パラレルマザーズ  スワンソング チタン 死刑に至る病

かなり偏った選となってしまったが、この26作品からいえば、第1位は間違いなく「声もなく」だ。ヒューマンドラマでは韓国映画は強い。第2位に邦画だが、本作はキャスティングの妙が評価できる。第3位はかなりマニアックな作品だが、空中でグレムリンに襲われるという奇抜なアイデアと、それを映画化してしまう手腕に脱帽である。今年一番の掘出し物といえる。

その意味では「ザ・メニュー」のように不道徳ながら人間の醜さをメタファーとして描く奇想性がすごくて、万人受けは難しいかも。万人受けという点では「コーダ愛のうた」は正統派のヒューマンドラマで好感が持てる。「RRR」はただただ映像の娯楽に身を任せればよい。久々のインド映画だが、まさか戦闘シーンで弓を使うとは思わなかった。ただし、前半は相当に冗長ではある。「秘密の森・・・」はその高いアート性に、「パラレルマザーズ」アルモドバルの新作、「スワンソング」佳作、「チタン」やりすぎ(何故かカンヌを制す)、「死刑に・・・」不道徳。

「哭悲」「トップガンマーヴェリック」あたりが次点だが、残りの作品はそれなりに佳作ながらどうも印象が薄い。「リコリスピザ」などは前評判がよかっただけに、肩透かしを食った感はある。2回見ないとよさが分かりにくいのかもしれない。

なお、作品の具体的な解説はここでは行わないので(できないというのが正直なところ)、各自調べてほしい。一押しは「シャドウインクラウド」だが、この10作品に関しては決して見て損はないと思う。また来年もいい作品との出会いがありますように。
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2021年映画ベストテン(個人の意見です) [映画]

今年もついに師走。今年は22本映画館で視聴した。洋画19本、邦画2本、バレエ1本。マニアックな作品が多かった。内容的にも??なものが結構あり、私の理解力の問題なのかもしれない。例によってミニシアター系、アート系作品が多いので、選択バイアスがかかっていることをご了解されたし。

ノミネート作品はバレエを除いて21本、洋画も邦画も一緒に集計した。視聴順に以下の通り
なお、★の数は、もし私が週刊文春の投票員であった場合に付けたであろう採点とし、さらに0.5点刻みとした。

ザ・ハント、燃ゆる女の肖像、わたしの叔父さん、ミナリ、ノマドランド、ザ・スイッチ、シカゴ7裁判、ジェントルメン、水を抱く女、ファーザー、Mrノーバディ、プロミシングヤングウーマン、スーパーノヴァ、ドライブマイカー、ライトハウス、OLD、サマーオブ85、MINAMATA、由宇子の天秤、DUNE砂の惑星、ラストナイトインSOHO

① ファーザー            ★5
② プロミシングヤングウーマン    ★4
③ シカゴ7裁判           ★3.5
④ サマーオブ85          ★3.5
⑤ ラストナイトインSOHO     ★4
⑥ 燃ゆる女の肖像          ★3.5
⑦ 私の叔父さん           ★3
⑧ ドライブマイカー         ★3
⑨ ミナリ              ★3
⑩ DUNE砂の惑星         ★3.5

今年は横並びでとびぬけて優れた作品がなかった印象はあるが、①ファーザーはダントツの一位だった。老いと記憶という深刻なテーマをアンソニーホプキンスが好演(アカデミー賞受賞)している。以下、②Cマリガンの好演と脚本に、③重厚、④オゾンの佳作、⑤現実と幻想の目くるめく世界、⑥印象深いゴシック風、⑦渋い、⑧村上の世界感、⑨佳作、⑩SF超大作 といったところである。

選外では、アカデミー賞を受賞した「ノマドランド」(★3.5)もまずまずの出来であるし、B級映画を楽しみたい向きには「ザ・スイッチ」(★4)と「Mrノーバディ」(★3.5)は間違いなく面白い。芸術性を楽しみたい向きには「水を抱く女」(★3)と「ライトハウス」(★3??)を(ただし、観客は置き去りである)。

全体的にみて、お金を返せレベルの作品はなく、見た作品はすべて良質な映画であった(選んでいるから当然か?)今年ですが、それだけに小粒感が強く、記憶に焼き付いている作品も少なかった。正直、「ファーザー」だけが別格なのであって、それ以外の作品はそれほど強く勧めたいというほどのものでもない。とはいえ、②や⑤など、主演女優がグイグイと引っ張るタイプの作品は要注目だろう。

⑩のDUNEについていえば、この作品が歴史的SF超大作の映画化であるということ。前回映画化の1984年リンチ監督版も視聴してみたが、これがまた意外と「いい」のである。新作のほうが優れていることは確かであろうが、是非旧作にも目を通してほしい。そして、この作品を映画化するということ自体に敬意を表したい。

来年もまた良い作品に巡り合えることを期待したい。
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ブラックジャックによろしく 感想 [映画]

テレビドラマを毎週見続けるのは苦手だ。大体忘れてしまうこともあるし、一週間空くとテンションが下がってしまうのだ。しかし最近、旧作をレンタルして一気に見るという技を得た。なるほど、これだと効率的だ。しかし反面、一気に見てしまう中毒性があり、健康には悪い。

ブラックジャックによろしくは2003年の作品らしい。いかにも共演陣が若いのもそのせいか、緒形拳が渋いし、何故かチョイ役の綾瀬はるかが今と変わっていない!のも興味深い。主演の妻夫木聡が若い!そして演技が下手である(数ヵ所嚙みあり)。医療ドラマだが、かなり際どい所を攻めており、このジャンルでは良作といえるだろう。

主人公の研修医の妻夫木聡だが、この主人公の暴走気味の正義感溢れる?いやむしろ偽善感満々の人物に好感を抱くことはできないが、そもそもそういう設定であると思われる。そして、その主人公と対立の構図で描かれる医者たち(役者名でいうと、緒形拳、杉本哲太、原田芳雄、三浦友和、笑福亭鶴瓶、鹿賀丈史)は、正義感に溢れているでもなく、淡々と自分の仕事をこなすプロである。彼らは世の中や医者の世界の決まり事に対して、暴走気味に戦うことなどは決してしない。内心に燃えるものがあってもそれを抑え、淡々と自分の仕事に打ち込むのだ。本作はそんな医師たちの描き方が非常に秀逸である。

例えば、末期の患者を受け持って張り切って過剰医療や延命処置をする主人公に対して、余計なことをするなという外科上司の三浦友和。これは圧倒的に三浦が正しい。

メスを置いた心臓外科医の原田芳雄に対して、自分の受け持ち患者の手術を執拗に迫る主人公。その原田が、自分の信頼できる後継者に任せるといっているのに聞きいれない。ましてや、自身の所属する大学病院の心臓外科でオペ日程まで決まっているのに、患者を転院させようとする。ここまでくると、極めて危険な人物に他ならない。「〇〇先生じゃなきゃだめなんです」というのが一番質が悪い。その先生だって、永遠に生きているわけではないのだから。(しかも家族でもないのに患者への気持ちの入れようが気持ち悪すぎる)。

小児科の鹿賀丈史、混雑する救急外来で喘息重積の患児の受け入れを「拒否」する。その子は亡くなってしまったという設定だが、どのみち当院では受け入れ可能な状態ではなかったから仕方がない。よく24時間365日受け入れますという宣伝文句はあるが、仮にキャパシティをはるかに上回った場合はどうするのか、物理的に無理なのではないか。限られた陣容ではおのずと限界がある。能力が100のところで120までは頑張れても、200も300もできるわけはないのだ。妻夫木は別の日にキャパを超えて救急車を受け入れてひどい目に遭う。

この救急車受け入れ拒否が、本ドラマではごく普通に行われている。バイト先病院の医師である杉本哲太も、最終話で軽いノリで「むりー、他所行って(ガチャ)」みたいな感じで断っている。かといって、これらの医師は能力にも倫理観にも決して問題があるわけではない。割り切っていて、自分の本来の仕事だけに注力するのだ。主人公はこれに違和感をもつわけだが、鹿賀丈史のいうところの「第二段階」の医師になれるのかどうかだろう。いつまでたっても「第一段階」の正義感?溢れる医師でい続けたとすれば、それはただのバカであるように思われる。

バイト先の外科病院の外傷患者に対して、逃げ出してしまう主人公。確かに、ペイペイの医者に重症患者のオペを一人でやれという極めてブラックな病院ではあるが、それでもさすがに逃走はありえないだろう。これがこの主人公の抱える二律背反的は矛盾点だ。正義を振りかざす割には、バランス感覚に圧倒的に欠けているのだ。これは心臓血管外科教授(腕が悪いとされる)の言う通りである。

そんな危険な暴走青年の主人公に対し、周囲の医師たちも次第に共感し・・・という内容だが、実生活ではまずあり得ないだろう。せいぜい三浦友和のように、「あのなあ、お前なあ・・・」という感じになるように思われる。その辺の描き方もとてもうまい。

こうしてみると原作も気になるところだが、おそらく本物の医者の世界感というものをしっかり取り入れていると予想される。なぜなら、本作で登場するような医者は実際にいても不思議ではないキャラがそろっているからだ。

鹿賀丈史(小児科医)が言うところの、「私ね、実は子供はあんまり好きじゃないんですよ」。これは本当に当てはまる小児科医は結構いそうで、でもなかなかそんなブラックな本音を漏らせないわけですよ、はい。

伊東四朗演じる手術できない外科教授。これも本当にいるとかで、そこまでひどくはなくても、私の知る外科教授の何人かは、手術が下手であることで有名でした、はい。

新生児科医の笑福亭鶴瓶はミスキャストと思いきや、実際にこういう雰囲気のくたびれた医者、います。

若き日の加藤浩次、5浪したので、30歳の新人研修医という設定ですが、こういう人物もありがち・・・。

緒形拳の言葉が強く胸に残る。おおよそこのような内容であった

「正しいってことは、弱いということだ。強いということは、悪いということだ。」 合掌。
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映画「ばるぼら」私的考察 [映画]

ばるぼらを観てきました。映画館が初めて行くところで、片道70kmもかけてですよ!。

手塚治虫原作の漫画「ばるぼら」は何回も読み返した作品であり、この作品がどのように料理されるのかが気になっていました。原作は手塚作品にあって、異色といえば異色ですが、中庸の容量で読みやすく、メッセージ性も明瞭で、キャラクターが立っているため、僕の中ではとても好きな作品です。

結果は、やや残念なものでした。

たしかに、ばるぼらの世界観は良く表現できています。主演二人に加え、共演陣の人選も完璧で、ダークな作風(撮影:ドイル)もよかったのですが・・・。

問題点はいくつかありますが、まず第一に原作の解釈変更に尽きると思います。原作の「ばるぼら」は、一応は実在するキャラクターとして描かれていましたが、本作では「ばるぼら」自身を妄想の産物に落とし込もうとしているように見えました。なぜなら、主人公の美倉洋介(演・稲垣吾郎)としか肉体的に絡まないように描いているからです。主人公のアパートに客人が来た時も、ばるぼらはキッチンに隠れて酒を飲んでいる設定です。原作では、主人公以外の人物とばるぼらが取っ組み合いのケンカをするシーンがあるのです。ばるぼらとの挙式に警察が押し入って週刊誌にスクープされるのですが、見出しは「大麻所持」だけです。原作では、全裸の乱交パーティーを激写されているわけです。つまり、映画版では、結婚式のシーンすらも美倉の妄想に無理やり落とし込んだ印象です。また、原作では結婚式の立会人の筒井という人物がいる(つまり、ばるぼらも実体としてみている)のに、映画版ではいません。こういった解釈変更により、映画版は理解しにくくなっています。

第二に、場面説明の不足です。ばるぼらは途中でまるで昆虫が脱皮するように、フーテンから「女」に脱皮して美倉に襲い掛かります。その通り描かれているのですが、映画版ではあまりに突飛すぎます。漫画版では、いきなり女になったといったような文章が挿入されていますので、この解説は必要でしょう。

説明の不足で決定的なのは、ラストの山荘のシーンです。ばるぼらは心肺停止ながら肉体はそのまんまという状態になっています。原作では、美倉はこの山荘に閉じ込められ、食料もなくやせ細った状態になり、ばるぼらを食べようとする(がそんなことはできない)。そんな中頭がさえわたって小説「ばるぼら」の執筆にとりかかるわけですが、ナレーションによる説明が皆無だし、稲垣さん全然痩せてこないので、何が何だか分かりません。

ついでにいえば、本来ばるぼらは「ミューズ」なので、一緒にいることにより美倉の作品がヒットするわけですが(原作では小説「狼は鎖もてつなげ」が大ヒット)、映画版ではカットされてしまい、ばるぼらの存在意義がわかりません。

藁人形の下りですが、原作では気が狂った美倉が自分で自分の藁人形をつくり、それを発見して妻(甲斐ひなこ 映画版では結婚せず)に詰め寄るという設定なのですが、映画版ではこの藁人形は一回しか出てきません。よって、意味が不明になっています。

ムネーモシュネーを渡辺えりが演じたのはGood(というか他に適任者がいなさそうだが)でしたが、出番が少なすぎ。そして、ムネーモシュネーの部屋にあった絵画が実は本物の骨董品であるというくだりは完全にカットされています。出番も少ないですし、これではモシュネーがただの太ったBBAになってしまいました。

とまあ、原作に詳しいだけにツッコミどころは満載なのですが、いい点はやっぱりばるぼら役の二階堂ふみがとてもエロチックな裸体で、これを見るだけでも細かいことはどうでもよくなるというか(ただのエロス??)、そういう映画でした。

苦言を呈しますが、細かい設定も含めて原作をすべて忠実に再現すべきでした。時間の制限があるのはわかりますが、本作は100分です。もう少し長尺になっても、すべてを描き切ることはできたと思います。というわけで、映画版だけではばるぼらの世界を理解できませんので、まずは映画を見た皆さんは、ぜひ原作を読んでほしいなーと思います。
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マルホランドドライブの謎 [映画]

この映画についてはほぼ語りつくされた感はあるものの、いくつかの点については言及されていない点があり、私的考察を加えた。

①ダイアンの夢の中でイタリア人マフィアの大物はなぜカプチーノを吐いたのか?

このマフィアの大物は、現実とされるシーン(映画後半)のアダム邸のパーティーのシーンで登場します。この人はパーティーのゲストの一人にすぎないのですが、おそらくダイアンの深層心理に張り付いていたために、夢の中の登場人物になったのでしょう。このとき、ダイアンはカミーラとアダムがいちゃいちゃして婚約発表する中において、コーヒーを飲んでいました。このコーヒーがカプチーノかどうかはわかりませんが、カップの大きさからすると、いわゆるアメリカンコーヒーではなさそうです。自分が認めたくない現実と向き合っているときに、ダイアンはコーヒー(カプチーノ)を飲んでいた、そしてその時に目にしたのがイタリア人マフィア様風貌の人物だったわけです。つまり、実際の味はともかくとして、イタリア人マフィア(様の人物)は嫌な思い出とリンクするので、その時飲んでいたコーヒーを思い出させたというわけ。ちなみに、このコーヒーカップが同一かどうか調べましたが、違うデザインのものでした。

②アダムはなぜ安ホテルに泊まったのか?

夢の中のシーンでアダムは失脚して安ホテルに身を寄せます。この夢の中のアダムも、ダイアンの深層意識下におけるアダムなので、その主体はダイアンといえるかもしれません。アダムはシンシア(おそらくアダムの知り合い?映画関係の会社の部下?)に電話をかけます。シンシアは「うちに泊まっていってもいいのよ」といいますがアダムは断ります。その後シンシアは「せっかく誘ったのに・・・」みたいなことを言いました。これはさりげないシーンですが極めて重要です。現実世界(映画後半)のアダムはダイアンと婚約するほか、どちらかというとプレイボーイ風の印象を受けます。一方、夢の中のアダムは奥さんを出入りの業者に寝取られたりと散々なようです。つまり、ダイアンとしては、アダムを女たらしではない(据え膳を食べない)つまらない男性として貶めたいという深層心理があったのだという解釈をしました。
さて、このシンシアですが、映画パンフレットの「全登場人物」に登場していませんでした。でも、わざわざこのシーンを挿入したわけですから、おそらく上記のような意図があったのでしょう。

③現実は本当に現実なのか
映画は大体2時間を経過して残りの20分が現実と回想という想定ですが、これが本当に現実なのかということです。もちろん、マルホランドドライブという映画自体が作りものですが、そういうことではなくて、です。アダム邸のパーティーで、さりげなくカウボーイハットをかぶった人物が後ろを横切るシーンがあります。この人物が、前出の「カウボーイ」(死神の象徴)と同一人物であるかどうかはわかりません。しかし、カウボーイをかぶった人物をわざわざこのパーティーの客として登場させています。この人物が死神と同一人物であれば、このパーティー自体が現実ではない可能性が出てきます。なぜなら、カウボーイは現実世界に存在しないはずだからです。一方、ただの偶然?の可能性もあります。わざと解釈の余地を残したということかもしれません。
 このことに加えて、パーティーのシーンへ移行する場面で映像が曇りガラス様にぼやける加工が施されています。これは、ダイアンの「回想」シーン(つまり現実)だからぼやけているのか、もしくはこのパーティーすらも現実ではないのか、どちらとも捉えられます。

④コーヒーカップの謎
①のカプチーノのコーヒーではなく、「ウィンキーズ」及び現実世界でのダイアンの自室のコーヒーカップが同一であったという点についてです。これについては、記憶の曖昧説と、実際に同一だった説の二つがあるようです(勝手に名付けました)。
記憶の曖昧説・・・ウインキースのコーヒーカップと同一のカップを私用で使うはずがない。よって、私用のコーヒーカップが妄想の世界の「ウインキース」で登場したのだ。(だから、映画の前半が夢の中であるということの一つの証明である)というもの。しかし、これには矛盾があって、ダイアンが殺し屋にカミーラの暗殺を依頼するシーンでも同じカップでした。このシーンは「回想」であるとはいえ、現実とされることをベースにした映像なのですから、齟齬が生じます。
実際に同一説・・・ダイアンはおそらく現実世界で女優を夢見ながら「ウインキース」で店員として働いていました。本当はいけないことですが、バイト先の食器をいくつか失敬するということは十分にありえることです。なぜ店員だったかということですが、夢の中の店員が「ダイアン」のネームタグをつけていることがヒントです。現実世界における視覚情報が夢の中にでてくることは私などは良く経験するところです。もし現実世界でダイアンがこのネームタグを見ていたことがあれば(何せ自分自身のものなのですから)、夢の中で出てきてもおかしくはない。そして、現実世界で「ベティ」という名札を目にします。深読みかもしれませんが、ダイアンはかつて働いていた店なのでついつい名札に目が行ってしまうのかと・・・。以上の理由から、実際に同一のコーヒーカップであるという説です。

私自身は後者の説を取りたいのですが、これにも矛盾があります。ダイアンは祖母から相当額の遺産をもらっているので(殺し屋に依頼するときの札束)、働く必要がないのです。そうはいっても、一向に売れず端役ばかりでそのお金も減っていたようなので、バイトを始めたのかもしれません。

⑤ 札束の謎
④を書いているときに思い出しました。夢の中のリタ(=現実のカミーラ)が持っていた札束が何なのかです。夢の中のリタは現実世界のカミーラの裏返しですが、意識の主体はダイアンです。(!!!こういうところが複雑!!!)。おそらくこの札束は、ダイアンが夢を追ってLAに出てきた時の祖母の遺産だと思います。もちろん、カード社会のアメリカで現金を持ち歩くという点が不自然ではあるのですが・・・。そして、ダイアンが殺し屋にカミーラの殺害を依頼するときには、バッグの中に札束がありますが、かなり減ってしまっているようです。ダイアンはハリウッドでは端役ばかりで鳴かず飛ばずだったので、殺し屋に支払ったらもう残金ゼロ状態かもしれません。たしかにダイアンの部屋はきわめて質素でした。

⑥夢の中のリハーサルのセリフは?
夢の中でベティがリタとオーディションの練習をするシーンがあります。その中で「パパに言いつけてやるから!!」とか「i hate you !! i hate you !!] というセリフがありますが、意味深長です。実際の映画で、いい大人が「パパに・・・」というセリフは多くないでしょう。
ダイアンはおそらく女手一つで育てられ、その母は死んで遺産をもらってLAに来ました。父親は本作に登場しませんが、おそらく現実世界では何らかのいろいろと複雑な事情があるのでしょう。もしかすると存命で、いざというときには助けてくれる存在なのかもしれません。
I hate you !!と、練習とはいえリタに絶叫するシーンはもうお分かりですね。リタは現実世界のカミーラの象徴であると同時に、現実世界のダイアンが意識主体です。自分を捨ててアダムに走ったカミーラを憎む気持ちがあると同時に、ハリウッドの底辺に淀んでいる自分自身への怒りでもあったと考えます。こういった細かいことにもおそらく伏線を張ったリンチ監督、さすがです。

⑦観客はいつ夢に気付くのか
初見では超難しいですが、映画の冒頭から注意深くみていると気付けるかもしれません。実際には、コテージを訪れるシーンで12号室の住人の不自然な振る舞い、17号室で死体にショックを受けて逃げ出すシーン(ボカシを使用)、真夜中なのに怪しい劇場に行くシーン、その劇場での非現実的な出し物とみていく中で、さすがにあまりにも現実感に乏しい映像で気づくとは思いますが、とはいえ夢の中の世界を現実の「映像」として撮影しているので、何気なく見ていると不可能です。私が思うのは、時々夢であるとはいえ、思いのほか現実に近い鮮明な画像の夢をみることがあります。よって、妙に納得するところがありました。

⑧オマケ なぜカツラがあったのか。
夢の世界の終盤で、リタが髪を切ってカツラをかぶります。その結果ベティ(つまりダイアン)と同化していくわけですが、なぜカツラなどあったのでしょうか?。アパートが伯母さんの所有なので、その方の持ち主かもしれません。ただ、どのみち夢の世界なので、必要な小道具はいつでも用意されていておかしくない・・・のだと思います。

イヤーほかにも書きたいこといっぱいあるけれども、これだけ映画を掘り下げたのは久しぶりです。でも映画を見ていない人には分からないわけで・・・。是非ともこの世紀の問題作に一度目を通してほしいと思います。
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映画は二度見るべき マルホランドドライブの体験 [映画]

年をとったということなのか、映画の2クール目を見ることが多くなっています。

以前は一度見たことのある映画を間違って2回目のレンタルをしてしまったとき、後悔することしきりでした。当然、一回見たことを忘れてしまうような映画は大して面白くないので、2回目借りて途中でデジャブーが起こって、またつまらない映画(2回もみる価値のない)をみて時間を無駄にしたことに対する悔恨の情というやつです。最大で3回目までしたことがあります。もっとも、そういった作品も反復してみるといい点もあったりしますが・・・。

マルホランドドライブは、2002年の公開作品。デイビット・リンチ監督作の新作で、面妖な雰囲気のPRもあり、「これは必見だー」と思って映画館に走ったのでした。ただ当時、とにかく年間百数十本もの映画を見ていた中の一本で、内容がよく分からずについていけず、おそらくは半分は眠ってしまったのかもしれません。そして狐につままれたような不思議な感覚とともに映画館を後にしたような気がします。この作品は2回以上見なければ理解できないだろうと思いました。当時、映画の半券持参でリピート1000円キャンペーンもやっていたわけですが、さすがにそこまではせずに、記憶の中に「なにか訳の分からない映画」として埋もれてしまったのでした。

その後も、レンタルショップなどでタイトルは何度も目にしましたが、「一度見た映画は二度は見ない」という原則のようなものがあって、再見には至りませんでした。とはいえ、大好きな作品は何度でも見るのです、実は。チャップリンの映画は、ひと作品数十回は鑑賞してきたほどですから。

今回借りることになったきっかけは、職場での同僚との会話で映画の話題になったことでした。そういえばマルホランドドライブって、訳の分からない映画だったけどすごい作品だよね(訳が分かっていないのに、すごいというのはただの世評のバイアスにほかなりませんが)っていう感じで。でも実はよく覚えていない・・・。

ということで、先日レンタル店でタイトルを目にして即レンタルとなった次第なのです。

18年ぶりの再見は、全く何一つ覚えていませんでした(やはり18年前は寝ていたのでしょう)。そして、同じように訳の分からない感覚に包まれました。仕方なく、映画解説サイトなどを検索して、本作の二重構造の理解を得たのでした。なんと、前半はすべて夢の中の妄想の世界を描いているということで、そのことは一応わかるようなヒントが提示されているものの、いつも通り普通に映画を見るスタンスで入るとその時点でつまずいてしまいます。そうはいっても、途中真夜中に怪しい劇場に行くシーンがあるのですが、これがあまりにも現実っぽくないので、さすがに夢の世界だということに気付くことはできるのですが。
解説をもとに3度目4度目と鑑賞してみると、幾重にもちりばめられた伏線が回収されていく感覚を味わえ、さらに夢(妄想)の世界ならではの独特のダーティーな世界観が描かれた稀有な映像だということに、遅ればせながら気づかされたのです。特筆したいのは、ファミレス「ウィンキーズ」のダンです。この人怖すぎです。

プロットを理解したうえでみると、実に「おぞましい」作品であることに気づかされます。リンチ監督のインタビューにもありますが、映画は感じるものだ(それは絵画や音楽と同様に)ということ、解釈は幾通りもあるんだろうと、その通りだと思います。はっきりいって観客は置き去りです。私のように一回だけ見て「なんかよく分からなかったけど、なにか凄そうだというのはわかった(要するに何もわかっていない)」という人は結構多いのではないでしょうか。監督もおそらくはそれでいいのだと思っているかもしれません。そもそもこの映画、一回みて理解できる人はおそらく皆無で、このシーンあのシーンの意味を反芻して考えて、ようやく「そういうことか!!」と理解できる(一部それでも理解できない)映画なのです。こんな映画だらけだったら疲れてしまいますよね。だからそういうジャンルはリンチ監督(古くはタルコフスキー、最近ではノーランなど)で十分かもしれません。

死ぬ前に2回目を見れて本当に幸せでした。18年間再見なく熟成させてしまったのですが、それはそれでよかったのだと思います。
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