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フードロスと廃プラ問題

最近になってフードロスや廃プラ問題がよく取り扱われるようになった。環境のことを考えるようになったのはとてもいい傾向だと思う。しかしながら、本質的なところに議論が深まることはなく、企業はアリバイ作りのような小手先の対策しかしていない。本気でこれらの問題に取り組むのであれば、相当の覚悟が必要だし、景気や失業率にも影響する可能性はあると思う。

フードロスに関しては、「家庭内でのロスが多い」とか、「消費者一人一人の意識を変える必要がある」とかいわれるが、これは責任転嫁である。実際、私は一人暮らしだが、フードロスは限りなくゼロに近く、せいぜい野菜の皮、中には生ごみとフードロスを同一に論じる人もいて注意を要する。買ったものを食べずに捨てている人というのはそんなにいるのだろうか?。また、買ったものを食べきれなくても仕方のないことではないだろうか?。それよりも、コンビニなどで売れ残った弁当の廃棄量のほうが圧倒的に多いのではないか?。この問題はすでに何度も論じた通り、需要(国民の必要カロリー)<<<生産量が問題なので、流通する商品を抑制するのが一番の解決である。今よりも売り切れが続出し、目当ての商品がない日は仕方なくカップ麺で済ませるようにするのだ。別に死ぬわけではない。ただしこうなると、関連産業で働く人たちが失業するかもしれない。

廃プラ問題についていえば、レジ袋をターゲットにすることで、大元であるプラスチック大量消費を目立たないように虚飾しているといえる。レジ袋の削減で年間○○億枚の・・・というのは感情に訴えるが、全てのプラ消費量の0.1%にも満たないのではないか?。クジラの胃の中のプラスチック汚染は確かに観るものの心を打つ。本気で削減したいのであれば、レジ袋だけではなくてすべてのプラ製品・産業を縮小すべきだが、そんなことは可能だろうか?。そして、代替となる製品は本当に環境にいいだろうか?。

バーゼル条約でプラごみ輸出が規制されるそうだ。なんでも日本は中国にゴミをおしつけているのだとか?。果たして、日本が国力では及ばない中国様にゴミを押し付けることなどできるのだろうか?。事実はその逆で、中国は日本から買ってでもプラごみを輸入したいというだけのことだ。何に使うかは知らない。再生されるのかもしれないし、発電所の燃料にするだけかもしれない。スウェーデンでも同様である。

ここにまさにヒントがある。プラを再生しようと無駄な努力をするから迷路にはまったのだ。プラごみを熱源として有効に利用することと、飛び散ったプラごみを有効に回収する方法を模索するべきだ。実際、街中でも飛び散ったプラごみを拾う人はほぼいない。そのプラごみは意図的にポイ捨てされたものかもしれないし、ごみ箱が風でひっくり返ってしまったのかもしれない。しかし、そういったゴミが風で流されて海を漂うわけだから、陸地で回収するのがベストだ。確かにその作業は汚いので、やりたいものではないが、ちなみに私は微力ながら拾うことはある。しかしこれは囚人でも使用しないと
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社会の分断が進んでいる [社会]

社会が成熟すれば、差別はなくなってみんなが幸せになる時代が来るなどというのは、思い込みの域をでないものであった。また、時間がたつほどに社会が成熟するとは限らず、むしろ退行することもあるのだという確信を持っている。

例を挙げれば、男女差別は確かに半世紀前と比べたら格段に改善したかもしれないものの、現代においてはむしろ男性への逆差別となる事例が横行しており、分断は深まっている。女性専用車両などという代物は痴漢抑止にはならず、一方的に男性を犯罪予備軍にしている点で大いに問題であると思うし、差別のない時代であれば「○○専用」などという発想自体がないはずである。

LGBTについても、ずっと以前からそういう人たちがいたことは知られていた。さすがに一昔前の欧米のように、同性愛を犯罪行為として処罰するようなことはなくなったし、性的指向(指向と嗜好に関する面倒臭い議論は置いておく)は自由だ。ちなみに、ある調査ではLGBTの中ではBが最も多く、Bは両性愛・二刀流だからなにも困っていないしむしろ幸福なのではないかとも思うのだが、LG(B)Tに関してはそもそも日本は寛容(というか無関心?)であったと思う。ただ、同性愛を気持ち悪いとか、トランスジェンダーをそんな人がいるはずがないとか、そう思うのも本来自由であったはずだ。しかし、現代においては、公的にそういった発言をするとヘイトスピーチとされたり、役職を追われたりしかねない。内心の自由まで制限されかねない世の中はいかにも窮屈である。もちろん、差別的な言動が許されないのは確かだが、「同性愛は気持ち悪い」とか、「LGBTに税金を使うな」という発言は許されないほど差別的だろうか?。その辺の議論がされない(封殺?)ところに問題があると思うし、新潮45の休刊は残念であった。

話はそれるが、私が今までさんざん論じてきた司法・警察の堕落は目に余るものがある。ある日突然善良な市民が一方的に犯罪者に仕立て上げられる恐怖。証拠がなくても推認だけで有罪にしてしまう司法。真実は二の次で、有罪判決を勝ち取れば出世できる検察・裁判官のシステム。多くの冤罪事件を調べると、「どうも 検察も 裁判官も 被告人が 無実であることを わかっていて 有罪判決を だしている」ような事例が散見される。自己保身のためだろう。引き下がれなくなったのだろう。社会正義のために情熱をもって東大法学部に入学したころの自分を思い出してほしい。

世界的にも国内的にも、分断は進んでいる。差別は減ってきていると思うが、差別がなくなると困る人たち(同和・部落・沖縄・自称アイヌ)が大声でわめきたてるので、ありもしない差別がほじくりだされて社会の分断を助長している。自然科学や文明は進化しているし、便利な世の中にはなったが、司法の世界では魔女狩りのような中世の様相を呈している。優れた人物は当局にマークされて刑務所に放り込まれたりする(ホリエモン)。大臣の失言が問題となっているが、上げ足を取るばかりで空転する国会。この国は(世界も)一体どうなってしまったのだろう。西暦2500年頃に、(その時代でも多くの問題は解決していないと思うが)今の時代はどう形容されているだろうか?。今我々の生きている世界は、成熟しているようでいて、まだまだ過渡期であると思うし、人間社会が真に成熟することはないのかもしれない。
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