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寄り添うとはいかに [社会]

ここ数年とても気になっていることがある。寄り添うという言葉の多用である。10年以上も前にさかのぼると今日ほど使われていなかったような印象があるし、前世紀においてはほとんど用語として使われていないように記憶している。

被災者の気持ちに寄り添って・・・とか、社会的弱者に寄り添った政策の推進を・・・とか、そういった文脈で使われることが多い。要は、弱者に対して思いやりの心をもって接するということなのだろうが、「寄り添う」という用語からはどうしても、「添う」という、肉体的にもたれかかるような印象をうける。そのため、寄り添うという言葉を聞くたびに気持ち悪く思うのは私だけだろうか?。

さらにいうと、今日では何でもかんでも「寄り添う」といえば許される風潮があるような気がする。そして、発言している側も、とりあえず寄り添っておけばいいだろうといった安易な使用が目立つように感じるのである。となるとどうなるか。「寄り添います!!」と声高に叫んだ瞬間が最後、その人は実際にはまったく寄り添っていないのである。後ろめたいから「寄り添う」という用語を安易に使うのではないか?。真の意味で「寄り添う」というのは実は本当に大変な所業のはずなのだから。例えば、認知症の妻の介護で何十年と老老介護を淡々と続けた夫は真の意味で「寄り添った」といえよう。私としては、寄り添うというのはそういう意味なのであって、軽いノリで出てくる単語では決してないのである。

影響はさらに続く。例えば、子供たちに将来なりたい職業を聞いて、「患者さんに寄り添った看護師になりたいです」というのを聞くのも珍しくなくなった。いった本人に悪気はないことは確かだが、言葉の安易な誤用がここまで進行したのかと、暗澹たる気持ちになるのである。

あえて言おう、安易に寄り添うなと。口先で寄り添ったところで、それは単なる「忖度」でしかない。

では何といえばいいのか?。「・・・の気持ちを推し量り、その方の気持ちを害さないように適切に対処いたします」というのも変だし、してみると今世紀の新語としての「寄り添う」はまさにいいえて妙である。
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偽ニュース注意報 インドネシア地震 [社会]

インドネシアで大地震大津波のニュース、哀悼の意を表したい。

そんな中、とんでもない偏見に満ちたニュースが飛び込んできた。何でも、市民の間で被災したスーパーから食料品などの略奪行為が頻発しているというのである。

全く???である。インドネシアでは日本ほど災害体制が充実していない。支援物資も届かない中、被災スーパーに散乱した水や食料を失敬するという行為がそれほど非難されるものだろうか?。また、横転した車からガソリンを抜き出すという略奪行為も言われていたが、これだって生きていくうえでやむなくやっていることは容易に想像できる。どのみち使い物にならない廃車になるであろう車からガソリンを失敬するというのは、災害時ではやむを得まい。同様に、スーパーも営業できず、食料品もいずれ廃棄処分になる可能性が高いものだろう。おそらく普段は善良な市民がほとんどのはずだ。あたかもインドネシア市民の犯罪傾向が高いかのような報道姿勢には全く閉口してしまった。

思い返すと、東日本大震災でも、かなり時間が経って救出された人の報道を記憶しているが、その人は確か他人の家の冷蔵庫に入っていた食料を口にして生き延びたと記憶している。しかしそのことを表立って非難したメディアはなかったし、誰でも仕方ないと思っただろう。何せ、そうでもしないと死んでしまうわけだし、その食料は瓦礫の一部に過ぎないのだから、むしろ「どうぞどうぞ」といった感覚ではなかったか。

もちろん、食料の補給がない中、空腹を我慢している多くの人からすれば、今回の略奪行為は不公平に映るだろう。そして、日本であればこういった行為は日本人独自のつつましやかさから起こらないであろうし、もう少し秩序だった対応ができると思う。だとしても、非常時であれば多少の軽犯罪行為もある程度許容すべきではないのか。

仮に、あからさまな凶悪な犯罪が多発するとか、他人の家から金品を盗むとか、壊れていない自動車からガソリンを盗むとか、そういった目に余る犯罪が多発するなら報道すべきだろう。それに引き換え今回の報道である。いや、確かに一部には悪質なのはあるのかもしれない。しかし、あまりにも表層的な報道では実際のところはまったくわからないというのが感想だ。おなじ地球市民として、極端なモラル破壊ではないものと信じている。
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新潮45休刊に寄す [社会]

休刊が決まった前後だろうか、新潮45を立ち読み、もしくは購入するために本屋に行くも、置いていなかった。売り切れか販売自粛か(もしくは取り扱っていない)だが、おそらく前者であったろう。すでにプレミア価格になっているが、そもそもが超3流週刊誌である週刊新潮を出している出版社なのだから、ここは開き直ってとことん議論を深めてほしかったものだ。

今回の問題点は、何をもって「許されがたい」差別とするかという点だ。ある人の論考を読んで傷つく人がいるからよくないというのであれば、そもそもほとんどの出版物を発禁にしなければならなくなってしまう。例えば、週刊金曜日というかなり極左の出版物があるが、内容はあまりにも反日ヘイトスピーチのオンパレードで読むに堪えない(もちろん購入は絶対にしない)。これを立ち読みした私や多くの保守の人たちは、間違いなく傷ついているはずだが、このトンデモ雑誌に対しての抗議の声は表立っては出てこない。世の中には思想のベクトルが極端に反対方向にぶれている領域というのがあって(政治にしてもLGBTにしても日本の戦争責任にしても)、それを議論するのは結構なことだし、議論の昇華から世界が開けてくるということがある。普通の感覚では、多少ともおかしな論考の雑誌があってもそれはそれとしてスルーするものであろう。したがって、今回の休刊騒ぎの黒幕に何らかのイデオロギー的な活動があったという風に予想されるのである。

話が脱線したが、LGBTについて否定的な意見を言うだけのことが現在では許されない差別になっているようだが、果たしてこれは一般の感覚として妥当なのだろうか?。今回の論考が、例えば「○○人は死ね!!」みたいなヘイトスピーチとは明らかに違うものであるのは明らかである。おそらくは、LGBTの権利拡大という結論が決まっているので、何としても議論を避けたいという表れではないのか?。であるとすると、まさに新時代の恐るべき全体主義とはいえないだろうか?。

ところで、もし仮に同性婚を認める、LGBT用のトイレを作る、差別をなくす、その他色んな施策を講じたとして、LGBTの「いきずらさ」がなくなるだろうか?。制度を作ることでなくなるという人もいるが、おそらくなくならないだろうし、それはやはり異性愛といういわゆるノーマルとの偏倚に内面的に感じる個人的感情に起因する部分がある以上、世界が平らになることはないだろう。

LGBT問題(そもそもそのうちのBの人は困っていないので外すべきだとする意見もある)はそういった個々人の内面を扱う領域であるし、制度ありきで拙速に議論すべき問題ではないだろう。しかし、そういった意見は差別的なので排除されてしまうのだ。世の中がこうだから、なかなか反対意見が言いにくい風潮がある。だからこそ、紙媒体が重要なのだ。この議論の続きを、月間Hanadaでもいいし正論でもWILLでもいいがやってくれないものだろうか?。LGBTがはれ物になってしまったので、しばらくは無理かもしれない。
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