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不寛容社会の真実 [社会]

社会が不寛容になったといわれる。本当にそうだろうか?。

実際のところは、弱者に対する寛容の押し付けなのではないだろうか?。当然のことながら、弱者への配慮や寛容は必要であろう。しかしながら、少しでも不寛容なことを発言したら強い咎めを受けることになり、結果言論が封殺されるとすれば、本末転倒であろう。

相模原市のSHATジャンパー問題にも見て取れる。度を過ぎたふざけた行為であることは間違いないし、正当な事由による受給者に大変失礼な行為であろう。しかしながら、なぜこのようなSHATグッズを製作するまでになった理由については深く掘り下げる報道はみられない。市職員への暴力行為があったということへの言及はあるが、おそらくそれ以外にも色々な辛い事象があったであろうことは想像に難くない。その辺の検討が不十分なまま、職員に研修を受けさせるということである。どのような内容の研修かは知らないが、被差別の側からの一方的な人権擁護的内容なのかもしれない。あまり公には語られないことだが、差別を受ける側にしてみると差別=利権なので、差別がなくなると困るのである。在日・同和・暴力団・生活保護・LGBT・沖縄反基地集団などがまさにそれであろう。これらの集団をマクロで見た場合には、確かに差別され苦しんでいるのであろうが、表に出てくる人々はどう考えてもマトモな人間ではないことが多い。武器を振りかざしながら「暴力反対~」と叫んでいるようなものである。このような人々に寛容になれというほうがどうかしているのではないだろうか。

LGBTに対する社会の理解・寛容を・・・とよく言われている。果たしてこれ以上の理解が必要だろうか?。そのような疾患で苦しんでいる人がいるし、そういった人々を含めて社会は多様なんだな~という程度でいいと私は思う。9割以上の性的正常者(この表現が適切かどうかはさておき)にとって、LGBTには興味がないだろう。人にはそれぞれの趣味・嗜好があり、人生にのこされた時間は有限である。それなのに、その時間を割いてまでLGBTに対する理解を深めなさいというのであれば、不寛容なのはLGBTの側だということになると私は思う。

私の個人的考えだが(註:最近「持論」という表現が流行っているが、「持論」は「異端」を想起させるのでよろしくない。)、社会でひっそりと暮らすLGBTの人たち以外の、LGBT運動家の人たちは相当差別的なんだと思う。そもそも、LGBTに対する差別などというものははなから存在しないのに、社会への理解・寛容を求めてくるではないか。

例えば、生物学的には男性で心は女性という人たちは、もしかすると男性器に対する極端な嫌悪感情があり、社会の半数を占める男性に対して差別意識を持っているのではないか。逆も同様にである。そうでなければ辻褄が合わないことが多いのではないか?。もし差別感情がないのであれば、普通なら異性への憧れを持ちつつも、生物学的な性をいうものを受け入れるのではないか?そして、その状況をむしろ楽しむこともできるのではないか?と思うのである。もちろん、このようなことを公で発言すれば大バッシングを食らうだろう。理解が足りないとか、不寛容とかいう罪状がつけられよう。果たして、私は、私の人生に残された限りある時間の一部を割いてまで、疾患の理解につとめ寛容にならなければならないのか、社会が許さないのか?。仮に私が差別主義者とレッテルを張られ(ても構わないが)、公人であるとして辞職しなければならないのか?。真の意味で多様性を認めるのであれば、反対意見や差別的とされる意見も含めてもっと徹底的に議論すべきではないのか・・・と思うのである。

まったくもって窮屈な世の中になったなーと思う。いっそのこと、トイレも浴場も男女別にせず、「ヒト用」で一括化し、戸籍の男女別も廃止するとか、そのくらい徹底するならわからんでもない。
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